那覇手系

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東恩納 寛量

宮城 長順と許田 重発

 

剛柔流

剛柔流は、那覇手の大家東恩納寛量に師事した宮城長順によって開かれた。東恩納は、中国福建省福州市に渡って南派少林拳を修行した。帰国した東恩納は、武勇を広く知られるところとなり、指導に力を尽くして宮城をはじめとする多くの逸材を輩出させた。後に、許田重發は東恩流、摩文仁は糸東流を興している。

 宮城の高弟の一人新里仁安は、1930 (昭和5)年11月、明治神宮で開催された奉納武道型大会に出場して、三戦を演じた。はじめ上半身裸になったことに主催者側から異を唱えられたが、新里は真価を発揮するには裸でなければならないと反論して演武を行った。結果、満場の観衆を感服させ、好評を博したといわれている。その際に流派名を問われたことがきっかけとなって、宮城は沖縄伝『武備志』の〈拳之大要八句〉の一句「法剛柔呑吐 身随時応変」(法は剛柔を呑吐し身は随時応変す)から「剛柔流」と名づけた。空手の流派としては最も古い。

 宮城は、剛柔流を「支那福建派の系統を継承し追時研鐙を積み剛柔流唐手拳法となせる」と位置づけ、沖縄で王国時代から受け継がれてきた徒手空拳の武術を武道として確立させることを目ざしていった。剛柔流の保有型には、基本となる「閉手型」として、三戦(サンチン)、転掌(テンショウ)を置き、「開手型」として砕破(サイファー)、制引戦(セイユンチン)、四向戦(シーソーチン)、三十六手(サンセールー)、十八手(セーパイ)、久留頓破(クルルンファー)、十三手(セーサン)、壱百零八手(スーパーリンペイ、ペッチューリン)がある。また、初心者向けに編まれた撃砕第一、撃砕第二と転掌は、宮城によって創案されたものである。

 宮城は、型とともに徹底した体力づくりを図るため、「予備運動」、「補助運動」、「組手」の体系化などによって、合理的な稽古・指導体系の整備を推進していった。

 「予備運動」とは、激しい稽古に入る前に身体各部を十分暖め、柔軟性を高める準備運動の役割と、稽古後には全身の調和を図り、静かに休養に至る整理運動の役目を果たすものである。「補助運動」とは、槌石(チーシ一)、錠石(サーシー)、握甕(カーミ)、金剛圏など独特の器具を用いた鍛錬と接近した状態で行う組手としての「カキェー」等のことである。補助運動によって、空手に必要な基礎体力を養成し、型に含まれる技法の修得と組手のための鍛錬を行っていく。

 「開手型」は、いくつかの攻防の技がほどよく連結されており、一つ一つの技を目的に合うように稽古をして、心身ともに統一させて修得することが目的となる。「閉手型」としての三戦、転掌は、丹田呼吸法による気息の呑吐と緩急自在に技を運用することが重視されている。剛柔流の技法の特徴は、多様な接近戦の技を多く有することがあげられる。

 剛柔流は1930年代は関西を中心に広まっていったが、1936年(昭和11)1月、宮城は堺筋明治商店講堂において「唐手道に就いて」の講演と実演を行っている。また、1915(大正4)年5月と1917(大正6)年7月には、中国武術研究のために福州を訪れ、1936(S11)2月には、呉賢貴、安仁屋正昌らと上海を訪れて演武を行い、地元の武術家らと親睦を深めている。1934年(昭和9)5月には、「ハワイ洋園時報社」より招聘され、翌年2月ごろまで指導を行った。

 

(東恩納盛男・嘉手苅徹)

 

【参考文献】

『唐手道概説(琉球拳法唐手道沿革概要)』宮城長順、1934(昭和9)年

『沖縄空手古武道事典』2008年